近鉄バッファローズがなくなり、オリックスブルウェーブがオリックスバッファローズと生まれ変わり、東北楽天ゴールデンイーグルスが生まれたきっかけとなった「プロ野球再編問題」。
今回はこのプロ野球再編問題をわかりやすく解説していた
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プロ野球再編問題は3回あった
サトウデスク
1度目のプロ野球再編問題

さかのぼること1949年、当時はまだ8球団1リーグ制。
当時のコミッショナーであった正力松太郎は球団を増やし2リーグ制の構想を記者会見で明らかにしました。
これを聞くやいなや、野球人気にあやかろうと続々と企業がプロ野球参加を希望します。
参加を希望した企業の中には読売新聞のライバル社でもある毎日新聞の名前もあり、巨人は猛反発。
同じく新聞社が運営する中日、そして大陽とともに読売新聞代表でもあった正力松太郎に反旗を翻します。
しかし、阪神、南海などその他5球団はこれに賛成。
その後、最高顧問会議が開かれ話し合いの場が設けられるものの、決着つかず。
阪神は賛成に意見を変えますが、結局平行線をたどり連盟が解散しリーグが分裂することになります。
そして、賛成派がセリーグ、反対のパリーグと、正力松太郎と望んだ形でありませんでしたが、今の2リーグ制へなりました。
2度目のプロ野球再編問題

2度目のプロ野球再編問題が起こった1973年は、巨人がV6達成中でまさに黄金時代真っ只中。
その影に隠れてパリーグは黒い霧事件などの影響もあり、年々観客動員数が減少していました。
セリーグが15,000人動員しているところ、パリーグは6000人強と2倍以上観客動員数に差があったほどです。
大不況のパ・リーグは球団の身売りが相次ぎます。
西鉄ライオンズは福岡野球株式会社に身売りし「太平洋クラブライオンズ」となり、東映フライヤーズは日拓に身売りし「日拓ホームフライヤーズ」となっていました。
そしてロッテオリオンズは本拠地であった東京スタジアムが閉鎖し、各地を転々としながら主催試合していたため「ジプシーロッテ」と言われていました。
そんなとき、日拓のオーナーである西村昭孝が、懇親会で「ロッテオリオンズと合併する!すでに重光オーナーは合意している」と言ったことから、今度はプロ野球1リーグ制の話が持ち上がります。
しかし、セリーグ会長や他球団オーナーなどの反対などもあり、結局ロッテオリオンズと日拓ホームフライヤーズは合併には至らず、2リーグ制は維持されました。
これはすべて1973年に起こった出来事。
西村オーナーの発言は、開幕直前だったこともあり、かなりのバッシングを受けました。
そしてこれだけ野球界を騒がした西村オーナー率いる日拓ホームフラーヤーズは、1年後に日ハムに身売りすることになります。
3度目のプロ野球再編問題(2004年)
サトウデスク
引き金は近鉄とオリックスの合併
2004年6月、バブル期の事業のしわ寄せで経営難に陥っていた近鉄にオリックスが球団合併を持ちかけます。
台所事情が火の車だった近鉄の山口社長はこの交渉に応じ、他のパリーグ球団もこの合併に賛成します。
これに対して選手会側は猛反発。
「もう少し話し合うべき」「合併は一年待ってその間に選手と球団で話し合ってほしい」と要望を伝えます。
しかし、その声は残念ながら球団側には伝わりません。
今後の具体案がはっきり決まっていなかったことでセリーグ球団からの反発はあったものの、プロ野球委員会は合併を承認します。
1リーグ制が浮上

7月に入るとヤクルトとロッテの合併の噂が。
また7日のオーナー会議に出席した西武の堤オーナーは、セリーグに入れてもらわないと5チームではやれないと話したことをを明らかにします。
これを機に報道も日を増すごとに強まり、ついには渡辺恒雄オーナーをはじめとした一部球団オーナーが球団数を大幅に削減し8~10球団の1リーグ制を検討していることが浮き彫りになります。
オリックスと近鉄の合併騒動だったはずが、プロ野球界全体を巻き込む大事件へと発展していくのです。
「たかが選手が」悪化する関係
当時の選手会長であった古田敦也は、近鉄オリックスの合併、1リーグ制導入を阻止するため、経営陣との話し合いの場を求めていました。
しかし渡辺恒雄オーナーが「無礼なことを言うな。分をわきまえなきゃいかんよ。たかが選手が」と一蹴。
この発言に経営陣への非難はより一層強まることになります。
(ちなみに渡辺恒雄オーナーはこの発言後、ドラフトの裏金事件が発覚し辞任することになります)
選手は著名活動をはじめオールスターでは同じミサンガをつけ、一致団結してこの問題に立ち向かいます。
このとき近鉄買収に名乗りをあげたのがライブドア。またとき同じくして経営難に陥っていたダイエーの買収へと動いたのがソフトバンクです。
プロ野球史上初のストライキ決行

9月5日、近鉄選手会長の礒部がストライキを提案。
これを受け選手会は、8日に控えるオーナー議の結果によってストライキを行うことを宣言します。
そして9月8日。
オリックス、近鉄以外が集ったオーナー会議で近鉄とオリックスの合併が正式に認められます。
その後、選手と経営陣で2度(9~10日・16~17日)の団体交渉が行われますが、「合併の凍結」などの選手会の要求は叶いませんでした。
これにより選手会はストライキを18、19日を日本プロ野球会史上初となるストライキを実行することになります
広島東洋カープはこの合併の決議には参加していません。その理由は「(カープは)地域によって支えられているため、地域の理解を得ていない採決には参加できない」と述べました。
カープは1リーグ制の話が出だした当初から「もっと慎重にしないと。経営者サイドでものを見すぎだ」と比較的否定的な立場でした。
ストライキ後事態は収束

ストライキ後、第三回目の団体交渉が行われ、球界再編問題は収拾に動きます。
残念ながら合併を食い止めることはできませんでしたが、新規参入チームを受け入れ12球団2リーグ制を存続させることが正式に決まります。
また新規参入にあたり今まで90億必要であった加盟料の撤廃、そして選手分配ドラフトへの新規参入チームの参加などの条件を球団側が了承し、球界再編問題は一応終結となりました。
このストライキ後、新規参入を果たしたのが東北楽天ゴールデンイーグルスです。
当初球団側は2006年以降でないと参入は難しいと選手会に説明していましたが、翌シーズンから楽天は加盟することができました。
そして大阪近鉄バファローズとオリックスブルーウェーブは当初の予定通り合併し、オリックスバファローズとして新しいスタートを切りました。
勝者も敗者もなく著者 日本プロ野球選手会
amazonには中古本しかありません。
しかし、この記事を読んでもう少しプロ野球再編問題を踏み込んで知りたいという方には本当におすすめ。
選手会から出版され、当時の事務局長だった松原徹氏が監修はに関わっているので、とにかく資料が豊富。
そして、この球界再編の交渉を行った選手のインタビューが掲載されています。
とにかく当時では言えなかったであろう事実を包み隠さず載せており、後世に残したい名著です!
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